こんにちは、松戸市六高台にあります統園鍼灸院 院長 市野統園です。
先日何気に、アメブロをサクサクしてると、こんな面白い記事に出会いました。
”あなたがその道の神になる究極の方法”
~その道のプロ、神と呼ばれている方は常に努力をし、その道の総てを知り尽くしています。ということは、あなたがその道を極めるにはやる事はただ一つ「その道の総てを知り尽くせば良いのです」~
すぐれた治療家は皆すぐれた五感をもってます
治療家とは、言うまでもなく患った方の状態をラクに戻す→後押しをする職業です。
良い治療をするためには、患者さんの状態を良く観る力が、すなわち問診力がとっても重要です。見立てがまずいと、思ったほどの効果が期待できないのは当然の理。
患者さんの顔色、表情、動作、くせなど全体像から舌、爪、脉、皮膚の状態などから細かいパーツをさささーっと瞬時に鑑別し、真の原因はここに有りと見立てた上で理にかなった治療を行えば驚くほど短時間で、大きな変化を出すことができます。
なので神技。
私のような凡人が、いざ行わんとすれば間違いなく問診だけで1時間は有にかかってしまうことでしょう。
そして、その膨大な情報から何を捨て、何を優先させるか迷路に入ったなら、頭は完全フリーズするでしょうね。
針の神様と呼ばれた 故・藤本和風先生
私のメイン治療は針術なので、今日は針の神様と言われた故・藤本和風先生のことを想い出しながら、先生の類まれな英知を御紹介させて頂きます。
私が先生のもとへ月1回勉強会に通わせて頂けることになったのは、鍼灸学校2年生の時でした。
すでに先生は八十の齢(よわい)をこえていらっしゃり、残念ながら出会いから2年後にはお亡くなりになられました。この先生は確かに神様だっと駆け出しの私にも明らかに直感したエピソードをいくつか。
治療とは御仏の心で施すもの。自分が治してあげるは愚の骨頂。
(当時は、ふ~ん。そんなものかとくらいしかとらえられませんでした。神仏のおかげ様の力を借りていることに疑いの余地がなくなったのはここ最近です。)
霊感の強い受講生がいまして、その人が「私は、大日如来を連れてくることができます。」と口走った途端、先生の表情が見る見る険しくなり「ばかもんお前さんは何てバチ当たりなことを」と一喝されました。
正しくは、大日如来さまのお陰を感じております。と申せば良かったものを、自我が強いために自分が連れてくる=自分が治してあげてるという、次元の低い言霊となって口からつい出てしまったのでしょう。
言霊=ことばの影響は本当にバカにしちゃだめです。
針灸師の心得とは
和風先生は、身体に存在するツボの名称をすべて頭の中にインストールされていました
針灸学では、私達の身体には十二の経路というエネルギーが流れる道が存在し、その道々にツボと呼ばれるエネルギーの出入り口が存在します。その数361点。
現役の学生でも、そのすべてをすらすらと空んじることはおそらく誰もできないだろうし、というかそういう努力は皆してませんね。
が、先生は受講生の前で十二経路のひとつ陽明胃経について、起点の”承泣”から終点の”れいだ”までの45のツボをまるで、お経をとなえるがとく、1点の誤りもなくスラスラと空んじられました。拍手喝采
「僧侶がお経を空んじるがごとく、針灸師は経路を空んじるのは当たり前」そうおっしゃいますが、私は基本中の基本の悟りが未だできておりません。
受講生が師に質問をします。すると先生は、それは○○という書の△△という節にちゃんと書かれておると即座にご返答。
受講生の矢つぎ早の質問に対し、オーソドックスな蔵書から(勉学不足で)初めて耳にする蔵書から、どこそこの○○にちゃんと書いてあると即、ご返答。
もう生き字引そのものです。
知っているというだけでも十分神様なのですが、それを術理にそって技として効力を出されるので神技となるのです。
飛ぶハエをシュッと針でつき通し、桐板をするすると何の抵抗もなく刺し通してしまう神技。
私は、いつの間にか断念してしまい業界でいう堅物通し、浮き物通しの基礎練習はギブアップ。だから凡人なんですわ。
天才とは、さして面白くもない地味な基礎練習を毎日日課としてただひたすら行う、行う、行うの結果。凡人は、頭ではわかっていても適当な言い訳を繰り返しいつの日からか行をしなくなる。ゆえに天才は100年に一度の割合でしか出現しないのかも
限りなく凡人の私ですが、たった一つだけ神をめざして20年来毎日懲りずに行っている行があります。
高塚叡直尊師との出会いにより、私の運命はガラッと変わってゆくのです。
次回は、凡人が神になる日を夢みてというお話しを
最後までお読み下さりありがとうございます。 市野統園